7月26日は「幽霊の日」
江戸時代に『東海道四谷怪談』初演された日ということで制定されました。

…というわけで、今回は『刀剣乱舞』実装刀ゆかりの人物にまつわる幽霊話…というか、怨霊の話をひとつ。
一説に石切丸の持ち主とも言われる悪源太義平…源義平の怨霊のお話です。
平治物語』巻下・「悪源太誅せらるゝ事」「清盛出家の事幷びに瀧詣附たり悪源太雷と成る事」を、
なんとなーくの意訳、いろいろと補った感じで訳してみました。
ちょっと長いですが、よろしければどうぞー。

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これは「平治の乱」が起きた際の話。
保元の乱で活躍し台頭した源氏と平家ですが、後白河法皇周辺での権力争いで対立。
京都六条河原の戦いで、源義朝率いる源氏方は敗北。義朝やその子供たちは東国へと敗走します。
父・義朝は尾張国で殺害され、頼朝も捕らえられます。
長男である義平も東国へ向かい、一時飛騨まで行くものの、父の死を耳にして、「このまま死ぬよりはせめて清盛父子を討って無念を晴らそう」と京都へ戻ります。
なんとか京都に潜入した義平でしたが、やがて敵に見つかってしまいます。


(永暦元年正月)18日酉の刻頃、難波次郎経遠は300余騎でその家に押し寄せ、四方を取り巻き、
「鎌倉悪源太はおられますか。六波羅より難波次郎経遠がお迎えにあがりましたぞ!」と呼んだ。
義平は袴をそば高く挟んで、石切を抜くと
「源義平はここにいるぞ!
ようし、手柄のほどを見せてやろう!」
と走り出て、その前方に進み出た兵を4、5人斬り伏せ、小屋の軒に手をかけて、ヒラリと登ると屋根づたいに何処へともなく去ったのだが、石山あたりに潜伏していたのである。



一週間後の25日。経遠は石山寺周辺に潜んでいた義平を捕縛。
義平は六波羅へと連行されました。



義平が六波羅で言うには…。
「俺は敵に伺い寄らんとして、ある時は馬と共に門に佇み、ある時は靴をもって縁側まで近づいてやろうとしたが、運がつきて、本意を遂げることもできなかった。生きながら捕らわれてしまったことは俺の力がなかったゆえのこと。
俺ほどの敵を少しでも生かして置いておくのはよくない。すぐに殺すがいい」
そう言ったきり、その後は何も言わなくなった。

やがて難波三郎経房によって、六条河原で殺されることとなった。
義平は敷皮の上に座って、まったく臆せずこう言った。
「敵とはいえ、この俺ほどの者を白昼に河原で斬るなんてことは後々遺恨になるぞ…。
先の保元の乱の時は、昼間は西山・東山の畔で斬り、たまに河原で処刑する場合は、夜になってから斬ったものなんだが。
平家の連中は、身分が上のも下のもみんな情がなく、物も知らない奴らだなぁ。
去年、熊野詣の時に道中追いかけて撃とうと言ったのを信頼とかいう考えの足らん奴が『騙して一か所に集めた上で一度にやっつけよう』などと言ったことが、今日の恥に繋がったことはなんとも悔しいものだ。
湯浅・藤代のあたりで取り囲んで討つか、阿倍野周辺で待ち伏せして一人残らず討ち取っていれば…」
そう言うと、難波三郎は「なんという最期の言葉ですか…」と応えた。
義平は嘲笑って、
「よく言った。これはたしかに俺の最期の言葉だ。
さあて、お前は義平の首を打つほどの者かな?
名誉な仕事だぞ。しっかり斬れよ。
下手くそに斬るなら、お前の頬に喰いついてやるぞ」
と言うと、難波三郎は
「変なことをおっしゃいますね。
なんで自分の手にかかる首が、頬に喰いつくんです?」

「今すぐ喰いついてやろうというわけじゃない。
最後には必ず雷となって、お前を蹴り殺してやる
そう言って義平はことさら首を高く差し上げると
「しっかり斬れ!」と見返った。
その睨む眼差しは、凡人のものには見えなかった。

そして、ついに言ったとおりに、義平は雷となって難波三郎を蹴り殺すのである。

仁安二年11月、平清盛は病にかかり、51歳にして出家して、法名を浄海とした。
出家したおかげか…、病気もやがて回復して、翌年の夏頃には平家一門の人々はそれぞれお祝いをした

同年7月7日、摂津国の布引の滝を見ようと、清盛もはじめ平家の人々が下るなか、難波三郎だけ「悪い夢を見た」と供をしない。
同僚たちが「武士だというのに、やれお公家さんのように夢見だの物忌だの言って…。なにが怖いものかね」と笑うと、
三郎も「そうだよなぁ…」と思って走って行き、夢が覚めて参りましたと言うと、これがまたなかなか興に乗って面白かったので、みんな滝を眺めて感に入った。

すると、空がにわかに曇り、雷が鳴りはじめた。
人々が興ざめしていると、三郎が言った。


「私が怖かったのはこの事だったんだ!
先年、義平の最期の言葉で『最後には雷になって蹴り殺してやる』と言っていた…その時のにらんだ眼が眼に焼き付いていつもいつも見えて…。
今日ついに彼が雷になる夢を見たんだ!
今さっき手鞠くらいのモノが辰巳の方角から飛んできたのを、みんなは見なかったのか!?
あれが義平の魂なんだ!
きっと帰り様にこの経房に襲いかかってくるにちがいない…。
……だが、太刀を抜いて構えておけば」

そう言い終わらないうちに、凄まじい雷鳴がして、三郎の頭上に黒雲がかかったと見えた途端、
彼は木っ端微塵になって死んでしまった。

その太刀はなんとか抜かれていたが、鍔本から反り返ってしまっていた。それは結縁のためにと寺でつかう釘用に寄付した。
恐ろしいと思うことすら愚かである。
清盛は弘法大師直筆の書をお守りとして首にかけて、しきりに震えていた。
このお守りのために近づけなかったか、雷はついに空へと登っていった。


悪源太こと義平。13歳で鎌倉に下り、去年19歳で都に上り、これといった思い出もなく、生年20…永暦元年正月25日、ついに亡くなった。

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人間、一度死ぬとチート能力が身に付くのは世の常(違)。
源頼朝・義経のお兄ちゃん、石切丸の持ち主とも言われる源義平が怨霊…雷になるお話でした。

義平の刀については岐阜県下呂市に伝わる祖師野丸もまた不思議な逸話をもっています。
源氏周辺はやはり刀剣についての伝承が豊富ですねぇ。

実装刀の持ち主で「死後に祟る」話があるのはほかに、膝丸曽我兄弟小竜景光楠木正成小烏丸平家などがあります。(幽霊の目撃談としては昭和になってから新撰組の幽霊が出たことも)

曽我兄弟は死後に敵討ちの現場に現れ、合戦の音を立てたとか、それを聞いた者は死んだり発狂したとか…。


楠木正成は鬼女となって自分を追い込んだ武士を襲ったという伝説があります。
この楠木正成の怨霊が狙っていたとされるのが包丁藤四郎です。(人妻じゃない鬼女が来ちゃったぞ…!?)
音だけで人を殺す曽我兄弟、鬼と化して敵を追い詰める楠木正成…。
…やっぱり、人間一度死んで転生したほうがチートで強くなるのでは(違)。

また、この話なんですが…。
ちょっと興味深いポイントがあります。

三郎は「太刀を抜いたら雷が防げるのでは?」といった趣旨のことを話しています。
金属の雷避けになるのは、法隆寺五重塔につけられた鎌のように、各所で見られるものです。
さらにの金属が「刀」となる話としては、
『稲荷記』で落雷の際に命婦(お使いの狐)の影が映ったとされる刀があり、また『北野天神縁起絵巻』では藤原時平が抜刀して雷神に立ち向かう姿が描かれています。
いずれも怨霊となった菅原道真公が御所に雷を落とした時の話です。
また『後愚昧記』によれば、九条家伝来の小狐丸は雷を打ち払ったとされます。
このあたりの小狐丸・稲荷大神・雷神についてのまとめはこちら。↓


また雷神タケミカヅチの武器がフツノミタマ・トツカノツルギといった刀である点でも、金属は金属でも「刀剣」が雷により近い存在だということが見てとれます。
雷避けには金属、さらに「刀」が効果的に打ち払うことができる、という考えもあったのでは…?

まぁ…実際に雷が鳴っている時にそんな金属の長いものを振りかざそうもんなら「微塵に」なって死ぬのは当たり前といえば当たり前ですが…。
雷を刀で斬って足が不自由になったという御仁もいますしねぇ…。雷切丸実装はよ。



参考文献:『平治物語』 岸谷誠一・校訂 岩波文庫
『日本刀おもしろ話』 福永酔剣 雄山閣 ほか


【そのほかの刀剣ゆかりの社寺】