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刀工・三条宗近にまつわる伝説が残る兵庫県姫路市の刃の宮地蔵尊
京都から大分の宇佐神宮に刀を奉納しようとした宗近が亡くなったとされます。
このお堂について書かれているのが江戸時代の郷土誌『播磨鑑』です。
その『播磨鑑』の稿本には別な由来が書かれています。
今回はそれをちょっと意訳してみました。
…といってもなんとな~くの訳ですので、正確ではないかも…。 

なんぞありましたらご指摘くださると幸いです。(訳が難しかった部分は原文をカッコで載せておきます)



京都三條小鍛冶宗近根元之記
これは芝原社人・井上越前より出た。

宗近は京都三条通りに住む鍛冶師である。

そのころ、同じ鍛冶師に當波という者がいた。

この當波が打った刀で、源頼光は丹波国大江山の盗賊を退治した。

こうしたこともあって、當波が天皇に奏聞して言うには、

「私の打つ刀はバケモノに対しては自ら鞘から抜き出てこれを切り払います。

この度は丹波の盗賊がクモに化けてやってきたのを切り払いましたので、そこから蜘蛛切丸と名付けました。

ですから、この私を天下一の鍛冶師としてお申し付けくださいますよう、お願いいたします」

その一方で天皇は宗近を呼びつけて、

「お前にもなにか不思議な刀はあるか?」とお尋ねになったところ、

宗近が言うには、

「私の打つ刀は、バケモノは言うに及ばず、太刀と太刀との毒気あります。(太刀ト太刀トノ氣毒有)」と申し上げた。

「それならば」と両人にそれぞれ一振ずつ使用することを仰せ付けた。

直ちに、両人が打った刀を一か所に置いておいたところ、宗近の刀は自然と鞘から抜けて、當波の刀を打った。

その時當波が申し上げるには、

「宗近の刀は友喰丸。私の太刀は蜘蛛切丸。友喰丸ではお役には立ちますまい」

天皇がお言い出されたことではあったが、

名刀であったが為に宗近は刀が完成できず、仰せつかっていた刻限を延ばしてしまったこともあって、御用を取り上げられ、京都に住むこともできなくなってしまった。
(君ヨリ仰出ルルハ然レトモ名作ナレハ宗近カ打物出来カネ仰付ラルル刻限延引仕ルニ付 御用取上ラレシ故京ノ地ニ居住ナラス)

 

宗近は備前国へと落ちて行く途中、正宗という者の家の門前に立ち止まってしばらく休憩していたが、家から仕事の音をするのを聞いて、

「鍔元より三寸先にスミゴモリがある、上げて打ちなさい」

と、その音を鍛冶の槌音として聞いて伝えた。

正宗は驚いて、「あなたは何者ですか?」と尋ねたので、答えるに、

「私は京都三条に住んでいた宗近という者だ」。

「さては噂に聞く宗近殿ですか。それならばこれ以後はあなたの弟子となりましょう」

これ以降、宗近は播州姫路芝原というところに住むこととなった。

この時打った刀の銘には「播州餝万郡芝原ニテ作之相槌野狐」と書かれた。

宗近は京都に住んでいた時に稲荷大明神を信仰していた。

そのため、稲荷大明神から孫太郎という狐を相槌に遣わされた。


孫太郎は芝原春日明神の藪のなかに居た。

ある時、姫路太守・本多美濃守(本多忠政公)の時代に、夜中に罠にかかった鳥を荒らしたと殺生方(狩猟担当者)から報告があったので、領地内で狐狩りをしたのだが、この孫太郎狐は残っていた。

後に池田輝政公が掘った堀に鉄砲が当った鳥を、百姓に化けて来て「取って参りましょう」と申し出てきた。

「ならば取って参れ」と仰せられると、すぐにその堀に飛び込んでその鳥を捕まえ、そのまま狐の姿になって春日神社の藪に飛びこんでいなくなってしまった。

人々が大勢集まっていろいろと探したが、行方は分からなかった。

後日、狐の穴を掘って壊してしまったために何処かとも立ち去ったとか。

その子孫の狐が今もこの春日の藪に住んでいるとも言う。

 

さて、今いろいろな方面の鍛冶で用いられている土を使って鉄に焼きをいれる方法は、宗近から伝えられたものである。

宗近は京都の稲荷大明神より孫太郎狐を介して「この山の土を使って焼刃を入れよ」と仰せつかり、これによって土で焼刃を入れることが始まった。

昔、伏見稲荷大社は稲荷山に鎮座していて、後に脇へ遷座した。

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(伏見稲荷大社・稲荷山山中にある長者社。宗近焼刃の水が残る)


宗近の社は播州姫路芝原というところにある。

宗近は歯の病で亡くなった。

宗近は「末代に至っても歯が痛む者は私を頼みにして願いを立てれば、すぐさま痛みは止まるであろう」と申し置きしたということである。

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(刃の宮地蔵尊の石碑・「刀匠三條小鍛冶宗近終焉之地 創建平安前期 寛和年間」とある)

宗近の時代は人皇六十六代・一条院の時代、永延年間(987989年)の頃である。

京都三條小鍛冶と名乗った。

宗近と同名のものは諸国に三人いる。

京都に一人。伊賀国に一人。九州に一人。以上三人である。


伊賀国に一人、というのはおそらく現在の滋賀県伊賀市音羽付近で活躍していたとされる刀工集団のこと。
この集団は代々「宗近」の名前を受け継いでおり、その初代は室町時代といわれます。
県の登録有形文化財にも「伊賀国宗近 永正元年六月」銘のある脇差があります。
『刀工遺跡めぐり三三〇選』によれば音羽には伊賀宗近の井戸とされるものがあり、同地区の佐々神社には「宗近の包丁岩」なる二つに割れた岩もあるとか。
音羽の近くには銅鐸に関係すると思われる「佐那具」という地名もあり、古くから製鉄に関する技術があったことがうかがえます。

また九州・鹿児島には宗近が流罪になり現地の刀工・波平正国の弟子となったという伝説が残ります。
『播磨鑑』でも大分県の宇佐神宮を目指していたので、なにかしら宗近本人と九州にはつながりがあるようです。


参考文献・『播磨鑑 全』平田庸脩・編 歴史図書社
『刀工遺跡めぐり三三〇選』福永酔剣・著 雄山閣 ほか


【そのほかの刀剣ゆかりの社寺】